小説風のブログをつくる参考にしたいと、先日本屋でたまたま購入した、村上春樹の「ノルウェイの森」と浅田次郎の「王妃の館」。どちらもまだ、読み終えていない。それぞれに参考になったが、どちらかといえば、浅田次郎の小説の方が私にはピッタリくるものがあった。
私の場合、「リアリティ小説」という新しいジャンルを意識しているので、どうしても、描写の正確さ、リアリティ度ということが気になってしまう。その点、村上春樹の小説には、リアリティ性という点で疑問を感じることが少なくない。といっても、それはフィクションだからと、割り切ってしまえばいいのだが。
たとえば、村上春樹と浅田次郎の2つの小説には、たまたま、飛行機の離発着時の描写があるので、それを比較してみたい。
『ノルウェイの森』の冒頭の文章は、「僕」がボーイング747に乗っていて、ドイツのハンブルク空港に着陸するときの様子を描写したものだ。
その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。11月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。
そもそも、まだ着地せず、着陸しようとしている飛行機から、「整備工」だの「BMWの広告板」などが見えるはずがないではないか、というのが率直な感想だ。また、それらが「フランドル派の陰うつな背景」と似ているとも、とうてい思えない。
続くパラグラフに目を移してみよう。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディはいつものように僕を混乱させた。
いったい、飛行機が着地を完了すると、「禁煙」のサインが消えるものだろうか?そんなことはあるまい。また、BGMが流れ始めるというのも、聞いたことがない。むしろ、パーサーが「着地しましたが、しばらくはそのまま席をお立ちにならず、、、」などのアナウンスをするのがふつうではないのか?さらに、次のパラグラフへ進もう。
僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。
これもいかにも不自然だ。着地した直後には、スチュワーデスはまだ座席ベルトをしたまま完全に停止するまでは、乗客とともに座席にとどまっているはずだ。それが、のこのこ「僕」の座席に、リクエストもなしにきて、英語で訊いてくるはずはない。もし完全停止後のことだとしたら、乗客はいっせいに席をたち、荷物を出したりして、通路は完全にふさがるから、スチュワーデスが僕のところにくる余裕は、ますますないに違いない。
このように、機内の描写一つをとっても、この小説の描写は、リアリティ性という点で、いろいろと疑問を感じてしまうのだ。
それは、たぶん私が「リアリティ性」にこだわりすぎるからだと思う。そんなことは、小説の本筋からいえば些末なことなんだろうと思う。そこが、「フィクション」に対する私の違和感の起因するところでもあるのだが、、、、
これに対し、同じく小説でありながら、いや筋書きからいえば、はるかに奇想天外でありそうもないフィクションでありながら、浅田次郎の「王妃の館」は、さまざまな情景の描写がはるかに正確で、かつリアリティ性に富んでいる。たとえば、機中の描写を少し引用してみたい。
最新鋭ボーイング777は、涯てもなく続くシベリアのツンドラ上空を、一路パリに向かって飛行する。
スチュワーデスが窓の日除けをおろし、機内の灯りをおとしてしまうと、時も場所も定かならぬふしぎな闇がやってきた。
こうした機内描写はあくまでも正確で、リアリティを感じられる。パリの空港に到着時の描写も同じくだ。
ふしぎな二組のツアー客を乗せたJAL405便は、ふしぎなくらい何ごともなく、フランス時間16時55分ぴったり定刻通りに、ヨーロッパの大地に着陸した。
低空からそのたたずまいを見下ろしたとき、人々はまず緑の森と豊かな田園風景に驚かされる。パリから25kmということは、要するにほんのそこいらである。・・・
別にたいしたことのない描写かもしれないが、そこには少なくとも嘘の描写はない。それが好感を抱かせる。村上春樹のように、ありそうでいて、実はあり得ない場面の描写はここにはない。
小説がフィクションだからといって、客観的事実の描写は、あくまでも正確であるべきだろう。それとも、違うのだろうか???
私がここで言いたいのは、村上春樹の小説におけるリアリティ性の欠如ではなく、むしろ浅田次郎のフィクションにおけるリアリティ性の高さであり、さらにその描写力のすばらしさなのだ。そうしたすばらしい情景描写を一例としてあげておきたい。
「あなたはきれいな人だから、きっとじきに、新しい日記をつけ始めます。そうすれば、古い日記は思い出になる」
「思い出したくもないんだけど・・・・・」
離した手で香の肩を抱き、北白川右京はシャトー・ドゥ・ラ・レーヌの開け放たれた青銅の門をくぐった。
古い建物にうがたれたトンネルに、小説家の声が響く。
「男の思い出はみな傷だが、女の思い出はみな美しい。わかりますか、カオリ」
「わからない。あなたの言うことは難しくって」
「ではもう少し平易に--男は傷を負いながら強くなるが、女は記憶の化粧をして美しくなります。僕は今しがた、あなたをとてもきれいな人だと思いました。つい声をかけてしまったくらい」
トンネルを抜けると、物語のような庭が豁(ひら)けた。シャトー・ドゥ・ラ・レーヌ。パリの町なかに時を超えて佇む、夢の城。
こういう描写は私にはとてもできない。プロの作家だから、当たり前だとは思うが、実にたくみな文章だ。それにまた、その中にはいくたの真実がちりばめられてもいるのだ。
浅田次郎の文章を読んでいると、会話などにも、非常に高いリアリティを感じることができる。それぞれの人物の話している様子が、生き生きと目の前に浮かんでくるようだ。
私も、これからこういった、すばらしい作家の文章を読みながら、ブログ文体をより洗練され、魅力あるものにするために参考にしていきたいと思う。